2007年02月03日

起こるのではなく、作られるもの

「それでもボクはやってない」

を、観て参りました。

 映画館で映画なんて、「機動戦士Zガンダム 星の鼓動は愛」以来。
 昔はよく観たんですがね。映画館から足が遠のき、レンタルでも観なくなり、ちかくに便利なシネコンができても、昔のような鑑賞欲は戻ってこず……なんででしょうな。

 さて、この作品。
 周防監督11年ぶりの作品というよりも、作品そのものに興味があっての鑑賞でした。
 劇中音楽のまったくない(と、思う。途中で気づいたから、それより先は未確認)、淡々とした作りで、しかしドキュメンタリータッチというには、ストーリーラインがはっきりしている。
 訴えたいことは明白だ。刑事裁判の不条理さ、これ一点。
 ベースの実話では冤罪を被るのは、妻も子もあるサラリーマンだったが、映画ではフリーターとされている。妻の悲嘆も、子の当惑も、本人の絶望も、その転換によって描かれず、家族の絆というテーマを捨て去ったことで、刑事裁判の問題点だけを、二時間半という長丁場でじっくり描くことができる。
 その考え方が端的なのはラストでしょう。
 これから見る人のために、詳しくは書きませんが、ぼくはびっくりしました。
 観客のだれもが、クレジットが流れはじめても席を立ちません。ぼくはクレジットは観ないのですが、観てしまいました。このあとに、なにかあるはずだ、字幕による説明だけでも……ありませんでした。
 この映画は「12人の怒れる男」ではないのでした。そんなカタルシスを期待してはいけません。
 主眼は、日本の刑事裁判の、問題を描く、それのみ。
 居心地の悪い幕切れで、ある日突然被告となってしまった恐怖を、再確認すればいいのです。

 カフカもソルジェニーツィンも、世界文学全集に収まる過去の作家ではなく、いまだに現役ばりばりの現代作家ということでしょうか。

 作品中、起訴された事件の有罪率は99.9パーセント、という言葉が頻出します。刑事司法は、警察、検察、裁判所、と連動して動く、複雑でしかも巨大なシステムで、それに捕らえられると逃れるのは容易ではない。事件にはテンプレートがあり、どんな事情による犯行も、そこに無理に当て嵌められて変形し、標準化、陳腐化され、裁かれる。
 冒頭、同じ痴漢の罪で逮捕された男が(こっちは明らかに犯罪を犯している)、罪を認め、賠償金を払ってすぐに釈放される。主人公も、当番弁護士にそれとなく、罪を認めてしまうことを勧められる――ほんとうに恐ろしいのは、ここでしょう。この映画を観て、ある日身に痴漢の冤罪が降りかかってきて――罪を認めない人はほぼいないと思われます。
 システムに捕らえられたら、謂われのない罪でも認めて逃れない限り、システムの巨大な歯車に潰される……
 冒頭になぜ、痴漢を登場させるのか、その意図を訝っていましたが、なるほど効果的でした。見終わってから、物語を反芻するに、いちばんショッキングなのは冒頭だったのです。  


Posted by guntech at 05:42Comments(0)その他